昔の「ラ」は、今の「ラ」じゃなかった?

音の高さの基準はどう変わったのか
オーケストラの演奏会が始まる前。
オーボエが「ラー」と音を出し、それに合わせてほかの楽器がチューニングしている光景を見たことがある方もいるでしょう。
現在、この「ラ(A)」は 440Hzや442Hz前後を基準にすることが一般的です。
Hz(ヘルツ)とは、1秒間に何回振動するかを表す単位。
A=440Hzなら、1秒間に440回振動している音ということになります。
では、バッハやモーツァルトの時代も「ラ=440Hz」だったのでしょうか?
実は――
違います。
というより、
「ラは何Hzにしましょう」という世界共通の基準そのものがありませんでした。
昔は町が変われば「ラ」も変わった
現在なら東京で買ったチューナーをパリへ持っていっても、A=440HzはA=440Hzです。
ところが昔はそうではありません。
国が違えば違う。
町が違っても違う。
教会によっても違う。
同じ町でも、教会と劇場で違うことさえありました。
つまり、
「この音が絶対的なラです」
という共通認識がなかったのです。
音楽家は、その場所で使われている楽器や慣習に合わせて演奏していました。
バッハの「ラ」は415Hz?
古楽の演奏会などで、
A=415Hz
という数字を見かけることがあります。
現在のA=440Hzより、かなり低い数字です。
440Hzと415Hzでは、おおよそ半音ほど違います。
そのためA=415Hzでバロック音楽を演奏すると、現代のピッチより全体的に低く、少し落ち着いた響きに感じられることがあります。
そこで、
「なるほど。バッハの時代は415Hzだったんだ!」
……と言いたくなるところですが、実はそれも少し違います。
415Hzは、現在の古楽演奏でバロック時代の音楽を演奏するときによく採用される基準のひとつ。
実際のバロック時代には地域や用途によってさまざまなピッチが存在していました。
バッハの周辺ですら、演奏する場所や楽器によって音高が異なることがありました。
つまり「バロック=415Hz」と完全に決まっていたわけではありません。
なぜ音の高さがバラバラだったの?
理由は意外と単純です。
昔は電子チューナーも、世界共通の周波数基準もなかったから。
特にオルガンのような楽器は簡単に別の高さへ調律できません。
その土地にあるオルガンの音高に、ほかの楽器や歌手が合わせることもありました。
さらに管楽器も、その土地や時代の音高を前提に作られます。
結果として、
「この町ではこのくらい」
「この宮廷ではこのくらい」
「この教会ではこの高さ」
というローカルルールがたくさん存在していたわけです。
ところが「ラ」はだんだん高くなっていく
18世紀から19世紀にかけて、面白い現象が起こります。
演奏に使われるピッチが、場所によってはだんだん高くなっていったのです。
一般に音高を上げると、音楽はより明るく、華やかで緊張感のある響きになります。
オーケストラ同士がより輝かしい音を求めるなど、さまざまな要因が重なってピッチが上昇していきました。
これを俗に**「ピッチ・インフレーション」**などと呼ぶことがあります。
ところが、困る人たちがいました。
歌手です。
楽譜は同じなのに、基準となる音がどんどん高くなれば、歌手が実際に出さなければならない音も高くなってしまいます。
楽器製作者にとっても、基準が場所ごとに違うのは不便です。
「そろそろ基準を決めたほうがいいんじゃない?」
という話になっていきます。
「ラの高さを決めよう」
19世紀になると、音高を標準化しようという動きが本格化します。
1859年にはフランス政府が、
A=435Hz
を標準として定めました。
さらに国際的な標準化が進み、20世紀には、
A=440Hz
が国際的な標準として定着していきます。
現在も国際規格上の基準はA=440Hzです。
ところが――。
じゃあ、なぜ442Hzで合わせているの?
ピアノを習っている方や、吹奏楽・オーケストラの経験がある方なら、
「うちは442Hzだけど?」
と思ったかもしれません。
その通りです。
実際の演奏現場では、必ず440Hzを使わなければならないわけではありません。
オーケストラなどでは441Hz、442Hz、場合によってはさらに高いピッチを採用することがあります。
日本でもA=442Hzはよく使われています。
つまり、
440Hz=国際的な基準
であって、
すべての演奏を440Hzで行うという意味ではない
のです。
演奏団体や楽器、音楽のスタイルによって基準ピッチを選ぶことができます。
たった2Hzで何が変わるの?
「440Hzと442Hzって、たった2しか違わないじゃん」
と思いますよね。
実際、半音違う415Hzと440Hzほど劇的な差ではありません。
それでも音楽家にとっては、響きや楽器の感触に微妙な違いがあります。
弦楽器なら弦の張力もわずかに変化します。
管楽器や声楽にも影響します。
そしてオーケストラ全体になると、その小さな違いが響きの印象にもつながってきます。
もしバッハが現代のピアノを聴いたら?
ここからが面白いところです。
私たちは現在、バッハもモーツァルトもベートーヴェンもショパンも、同じ現代のピアノで演奏します。
しかも多くの場合、現代のピッチで調律されたピアノです。
でも彼らが実際に耳にしていた音の高さも、楽器の響きも、現代とは違っていました。
だから古楽の世界では、当時の楽器を復元したり、当時に近いピッチを採用したりして、
「作曲家にはどんな音が聞こえていたのだろう?」
と探っていきます。
これは単なる昔の再現ではありません。
音の高さを変えるだけでも、テンポ感、音色、楽器の響き方、音楽から受ける印象まで変化することがあります。
「ドレミ」は絶対的なものではない
普段ピアノを弾いていると、中央の「ラ」はいつでも同じ音のように思えます。
でも音楽の歴史を振り返ると、
「ラ」という名前と、その音が実際に何Hzなのかは別の話
だったことがわかります。
バロック音楽を415Hzで演奏する。
現代のオーケストラが442Hzで演奏する。
国際的な基準として440Hzを使う。
どれかひとつだけが「正しい」ということではありません。
音の高ささえ、時代とともに変わってきた。
そう考えて昔の音楽を聴いてみると、
私たちが当たり前だと思っている「ドレミ」も、長い音楽の歴史の途中にあるものなのです。